ナカノ株式会社/取締役副社長 窪田 恭史氏


衣類のリサイクルを手掛け87年。年間1万トンにおよぶ衣類を「活かす」、「他利自得」の姿勢

 SDG’s(持続可能な開発目標)が叫ばれるようになるはるか昔、「リサイクル」という言葉すら存在しなかった昭和の初めから、衣類のリサイクルを専業とする故繊維問屋として横浜に創業したナカノ株式会社。

 大量消費がむしろ美徳とされていた時代も一貫してリサイクルの必要性を訴え、事業を通じて形にしてきた、その根底にある価値観「エコソフィー」に迫る。

#ナカノ株式会社窪田恭史

創業のきっかけは?昭和の初めからリサイクルをされていたとは、先見の明ですね

 ナカノ株式会社は、昭和9年(1934年)、祖父中野静夫が横浜市中区伊勢佐木町7丁目に創業しました。よく「そんな昔からリサイクルをされていたなんて先見の明がおありですね」と言われますが、そうではありません。戦前の日本は今と比べはるかに貧しい国でした。したがって、当時は限りあるモノを大切に繰り返し使うという営みが当たり前の文化としてあり、それにもとなって再資源化を業とする業者が広く存在していたのです。祖父はそうした再生資源を行う仕事で奉公を積み、昭和9年に独立した。それが弊社の興りです。

 安価なモノを大量に輸入し、大量消費、大量廃棄ができるようになったのは、長い日本の歴史の中で、ここわずか50数年、高度経済成長以降のことに過ぎません。その間に私たち日本人がリサイクルという文化を忘れてしまっただけなのです。2005年には南アフリカのマータイさんが、そもそも日本語である”Mottainai”で注目され、2015年には国連が持続可能な開発目標(SDG’s)を採択しました。しかし、わが国にはもともとリサクルをする文化があった、それを思い出せば良いだけなのだということを、事業活動を通じて表現できたらと思っています。

 弊社は衣類が専門ですが、ただ要らなくなった服を集めるだけでなく、それを再商品化し、自らの手で使っていただく人のもとへ届けるという、資源循環にモーメントを与えるところまで責任をもって行っています。再生された商品の多くは、日本経済を支える製造業で使われていますが、そうした我が国の基幹産業も、そこで働いていらっしゃる皆さんの安全、安心、健康があってこそです。そこで弊社は再生商品だけでなく、広く作業現場の安全衛生に寄与する商品も同時にお届けするという事業を行っております。これも広い意味で環境活動であると考えています。

#古着の山
【回収され、うず高く積まれた古着の山】

副社長になられてから、ご苦労されたことはなんですか?

2019年に副社長に就任されたとのことですが、これまでで、一番きつかったことは何ですか?また、その中で変化、学ばれたことは何だったのでしょうか?

 2000年の末に入社し、約20年になります。その間、リーマンショックのような経済の激変はもちろん、海外で行っている事業が発展途上国の政治トラブルに巻き込まれ、数ヶ月後には事業の継続すらできなくなるかもしれない危機に見舞われたり、2013年にはリサイクル事業の中核をなす工場が原因不明の火災で全焼してしまったりと、きつかったことと言えば色々ありますね。

 工場が全焼した際、絶望の淵で焼け跡に佇みながら、ふと思ったことがあります。「今、工場が焼け野原になってしまったけど、祖父が戦地から帰ってきた時には会社はおろか、家や町そのものが焼け野原だったんだよな…」。そうすると「自分などまだマシなんだ」と勇気が湧いてきました。そういう意味では、長い歴史に救われたと思います。あるベテラン社員に言われた、「窪田君、君が下を向いてちゃダメだ」という言葉にも励まされました。

#全焼した工場
【2013年、中核工場が全焼する】

これからの展望、夢はお持ちですか?

今後、取り組んでいきたいことがあればお聞かせ下さい。

 よく「50年後(あるいは100年後でも)どんな会社になっていたいですか?」と聞かれます。実は、こんなこと言っていいのか分かりませんが、ないんです。

 しかし、「どういう性質の組織でありたいか?」というのであればあります。それは価値観という方程式の中で、社員一人一人が変数として自由に振る舞うことによって自己組織化する組織です。事業はその結果創造された表現、「絵」に過ぎません。ですからむしろ現在の思考で将来どのような絵が描かれるかに限界を設けたくないのです。

 では、その価値観とは何か?2000年に入社した時、入手可能な歴史資料、1984年以降、当時の社長であり父である中野聰恭が新聞等で発言した記録を全て洗い出し、これから方程式とするための、弊社の根底に流れている価値観を抽出する作業を行いました。その結果現れたのが、「活かす」、「他利自得」、「エコソフィー」の三つです。

 「活かす」とは、ヒト、モノ、カネ、情報、何であれ有機的に結びつけ価値を生みだすことです。これはリサイクルを業として興った弊社のアイデンティティとも密接にかかわっています。「他利自得」とは、「他者の利益を以て自らも得をすること」、即ち「Win-Win」の関係を築くことです。3つ目の「エコソフィー」は、「エコロジー」、「エコノミー」、「ソフィー」の3語からなる造語です。これも弊社のアイデンティティと結びつきますが、そもそも私たちの事業は環境活動と経済活動が一体のものです。これを分けて考えるも一つのものとして考えるも、結局人の生み出した概念に過ぎません。ですから、一番大事なのは人の知恵(ソフィー)だということになります。東洋思想では、この世界を「天地人」の「三才」が三位一体となったものと捉えていましたが、それと同じです。因みに、全焼した工場跡地に再建した弊社の総合物流施設「エコムナ」の外観は、この「エコソフィー」を色で表しています。

 この3つの価値観を共有する限りにおいて、一人一人が自由に振る舞う。その結果、数十年後に想像もしなかったような位置にいる。そこにむしろワクワクしたいと思っています。

#ナカノ株式会社総合物流施設エコムナ
【エコソフィーを三色で表現した総合物流施設の外観】

ナカノ株式会社

故繊維リサイクルおよび安全衛生用品卸売業

代表取締役社長 中野 博恭

横浜市南区新川町4-26

https://www.nakano-inter.co.jp/






株式会社うお時/代表取締役社長 渡邉 清高氏


チャレンジを続ける老舗弁当屋の社長、そのモチベーションは?


3代続く横浜の老舗仕出し弁当屋、うお時。
「老舗」というと、創業者が立ち上げた事業を安定して継承しているイメージを持つ方も多いかもしれませんが、うお時は数々の変革を経て今があります。
特に現社長である渡邉清高氏は、先代の時代から新ブランドの立ち上げや、小売店舗進出など、挑戦を続けて来ました。
現在も「日々、是、改革なり」を座右の銘に掲げる渡邉社長の描くビジョンとは?

横浜で1番古い仕出し弁当屋さんとお伺いしてますが、本当ですか?
・創業のきっかけは?おじい様が創業されたと聞いていますが…

横濱うお時は、昭和27年(1952年)、私の祖父である、渡邉時太郎が横浜市中区若葉町で創業いたしました、仕出し弁当屋です。

私ども渡邉家は、横須賀市走水で代々、網元でした。
しかし、この祖父・時太郎は、子供の頃から網元ではなく、料理人になりたい、という思いが強く、半ば家出同然で東京・青山に修行に出たそうです。

その後、横浜市中区伊勢佐木町付近で河豚屋を開店させますが、折しも日中戦争、太平洋戦争前夜という状況で、出征を余儀なくされ、留守中、お店は祖母が一人で切り盛りしていたと聞いています。
ちなみに、祖父は神奈川県で18番目、祖母は東京都で2番目の河豚調理師免許取得者です。

戦後、帰還し、魚の目利きに自信があった祖父は、若葉町で魚屋・魚時を開店させますが、なかなか商売がうまくいかず、売れ残りが多い日が続いていたようです。
厳しい日々だったと想像できます。
そんな日々の中で、祖母が、売れ残りの魚を調理して飲食店に届けることを思いつきます。

そう、これが昭和27年、仕出し弁当屋うお時のはじまりです。

以来69年、三代に渡り仕出し弁当屋を横浜の地で営んでまいりました。
横浜で1番最初の仕出し弁当屋、あながち間違いではないと思いますよ。笑



社長になられてから、ご苦労されたことはなんですか?
チャレンジし続けている清高社長、一番きつかったことは何ですか?
また、その中で変化、学ばれたことは何だったのでしょうか?



私たちのこだわりは、「おいしい魚を提供すること」「地産地消」「手作り」です。
先代の父から経営を引き継いで、まず最初に取り組んできたのは地産地消のお弁当メニューを開発すること。
そのために、横浜市内・神奈川県内の様々な生産者の方々と交流を持たせて頂きました。

「ヨコハマヤサイdeマルシェ」という新ブランドを立ち上げ、地域のイベントや、みなとみらい線の駅構内で、地産地消のお弁当を販売させて頂いたこともありました。
また、みなとみらいや相模原の大型商業施設内にテナントを出店するという試みもしています。

結果的に、ヨコハマヤサイdeマルシェと商業施設内の店舗は2016年に撤退。
これは本当につらかった。もうほぼ破産寸前、心身共におかしくなり、下手したら自殺しちゃうんじゃないか、と思える位、しんどかった。うつ病にもなったしね。笑
でも、その時、いろんな人が手を差し伸べて、話を聞いてくれたり助けてくれたりで
何とか事業を続けることが出来たと思います。
人の縁のありがたさ、そして、失敗を通じて、商品作りをイチから学びなおす、
今から思えば良い経験になったと思います。
まぁ、2度と、あの経験はしたくありませんが。笑

だからこそ、いつだって勉強し続けなきゃ。
それが「日々、是、改革なり」を座右の銘としている理由。
次なる戦略としてインターネットの活用に力を入れ始めます。
もともと2005年から自身のブログは書き続けているので、インターネットの力は体感していたのですが、デリバリーに特化したポータルサイト様と深いお付き合いをさせて頂いていて、神奈川県ナンバーワンの売上を獲得したこともあります。
今や、仕出し弁当屋も、ネットで注文をとるのが当たり前の時代になったと気付かされました。



これからの展望、夢はお持ちですか?
・今後、取り組んでいきたいことがあればお聞かせ下さい。

具体的には2つあります。
コロナ禍で感じたことは、日本という国には、地方それぞれに本当に魅力的な食材、料理があるということ。
そういった食材やレシピを、弊社でお弁当という形で皆様にご提供できないか、という試みです。
現在、弊社の大人気商品「ぶりの味噌焼き」「ぶりステーキ」のブリは、長崎県佐世保市の九十九島で養殖された2年物を使っています。このブリは非常に味がよく、弊社の秘伝の味噌床との愛嬌が抜群です。また、近日中には、長崎、特に佐世保にちなんだレシピのお弁当、発売を計画しています。このように、長崎だけでなく、日本国中の美味しい素材、レシピをお弁当という形で皆様に、美味しく知って頂きたい。
何故、そんな事を考えるのか?それは、地方色のあるレシピを通じて、皆様に食事をより楽しんで頂きたいからです。
うお時らしさは、そのままで。けれでも、よりご興味、関心を持って頂けるようなお弁当を開発したいと考えています。



もう1点は、現在、デリバリー市場の拡大で、デリバリーサイトからの注文比率がくなっています。売上を伸ばすということだけを考えると、これも悪いことではないのですが、利益率を上げるためには、自社でダイレクトに注文を獲得することが必要だと考えています。
2020年に自社ホームページにもカート機能を追加し、直接ご注文頂くことができる体制が整ったので、この自社サイトからの注文を、いかにして増やしていくかが目下の課題ですね。お弁当が必要なオケージョン、つまり、人が集まるところ。
なので、人が集められるツールとして、地域のポータルサイトの運営にも興味を持っています。
実際、『濱街沿線ダイアリー』というポータルサイトの運営を、この夏からスタートします。
対象エリアである、川崎市・横浜市・横須賀市・三浦市・逗子市・葉山町の様々な店舗さん、団体さんの魅力をSNS等で発信し、街の活性化に微力ながらお手伝いしたい、そして、その場に弊社のお弁当をお届して地域の方々みんながwin-winの関係に繋がる、そんな仕組みを創っていきたいと考えています。まぁ、夢のような話ですが。笑 でも絶対に実現させますよ。


企業情報
株式会社うお時

【事業内容】
仕出し弁当業

【代表者】
代表取締役社長 渡邉 清高

【所在地】
横浜市中区若葉町2-26

【URL】
http://www.uotoki.com/

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より一層のご愛顧を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。




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